月出東斗、好風相從。
月 東斗(とうと)に出づれば、好風 相い従う。
日中文化交流の本家
開校の辞
「人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり」- かく老子の云ふやうに、 日・中が、東斗の同じ月光の下で、まづ、自らの出生を知り、明らかにすることからはじめ、そして他者を良く智ることができれば、今以上に相互理解を深めることができるはずだ。他我の本質的な違いの認識度に応じて、逆に相互の尊重度は増大し、そこにこそ真の文化交流の好風が生じてくるだろうから・・・。結果、西世界に対しては共通の、東世界においては相互の、次世代にふさわしい客観的な批評精神を涵養していけることとなろう。近代自然科学を中核とした欧米文化に翳りの見え始めた今日、極東アジアのみならず、今後ますます相互依存を強めていかざるを得ない世界にとって、自己智にもとづくバランスのとれた批評精神がなにより大切なことになると考える。奇しくも、現代「量子力学」の基礎を築いたシュレーディンガーSchrodingerが、彼の著書『精神と物質』で「我が波動方程式は東洋哲学の諸原理を記述し、西洋科学の構造に東洋の同一化の教理を同化させることによって解き明かした」と述懐している。が、その表明ひとつを例にとってみても、世界精神というものがあると仮定した場合、もはや、その世界は、純粋数学や、理論物理といった自然科学言語だけで、いわんや欧米の言語のみで表現するのは適さない時代になってきているのは明らかである。
本学院は、上古以来の日・中の旧交を温め、さらなる友誼を深めて真の相互理解ある未来を拓くために、そして、東洋と西欧文化との実りある対話が可能となる共通の視座を構築していくために開設された。当講座が、日本に大きな影響のあった古代中国の文化、とりわけ芸術・科学・医学・武芸をもう一度正確に、謙虚に学ぼうと志す方々の手助けとなり、結果、わづかでも国際交流にお役に立つことができれば幸いである。また、当学院は、良質な日本文化を古代から現代にわたって、中国へ紹介する機能も有している。
東斗(とうと)の空へ、李白や芭蕉のうたった月がかかれば、おのづから、真の友好文化の好風が両国間に吹き渡ることだろう。
東斗文化院 名誉院長 王 永平 哲学博士
名誉顧問 野石 筒介
中国書画江界連合会理事会理事
院長 長谷川 有
Web制作 正華制作集団
東斗文化院 講座概要
中国古代思想 老荘を中心に玄術学から四書五経
古代芸術 山水画・書
現代芸術 中国現代芸術の紹介
古代科学 天文学から医学まで
現代科学 中国現代科学の紹介
「東斗文化」 創刊号表紙(中国語版)Up
老子を核とした哲学寄稿論文&美術作品
ミックスメディア(ウェブ+ペーパー+携帯)
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*牀=牀几
静夜思 李白
牀前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷
床前(しょうぜん) 月光をみる
疑うらくは これ地上の霜かと
頭(こうべ)をあげて 山月をのぞみ
頭を低(たれ)て 故郷をおもう
月下独酌 李白
花間一壷酒 独酌無相親
挙杯邀明月 対影成三人
月既不解飲 影徒随我身
暫伴月将影 行楽須及春
我歌月徘徊 我舞影凌乱
醒時同交歓 酔後各分散
永結無情遊 相期雲漢
花間 一壺の酒,
獨酌 相ひ親しむ 無し。
杯を 擧げて 明月を 邀(むか)へ,
影に 對して 三人を 成す。
月 既に 飮を 解せずして,
影 徒(いたづら)に 我が身に 隨ふ。
暫く 月と影とを 伴ひて,
行樂 須(すべか)らく 春に及ぶべし。
我 歌へば 月 徘徊し,
我 舞へば 影 零亂す。
醒時 同じく 交歡し,
醉後 各ゝ(おのおの) 分散す。
永く 無情の遊を 結び,
相ひ 期して 雲漢はるかなり 。
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後出塞 杜甫
朝進東門營
暮上河陽橋
落日照大旗
馬鳴風蕭蕭
平沙列萬幕
部伍各見招
中天懸明月
令嚴夜寂寥
悲笳數聲動
壯士慘不驕
借問大將誰
恐是霍嫖姚
(こうしゅっさい)
朝(あした)に東門の営に進み
暮に河陽(かよう)の橋に上る
落日 大旗を照らし
馬鳴いて風蕭蕭(しょうしょう)たり
平沙 万幕(ばんまく)を列(つら)ね
部伍(ぶご) 各々招かる
中天 明月懸かり
令 厳しくして 夜 寂寥たり
悲笳(ひか) 数声(すうせい)動き
壮士 惨として驕(おご)らず
借問(しゃもん)す 大将は誰ぞ
恐らくは是れ霍嫖姚(かくひょうよう)ならん
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渾沌 荘子
南海之帝為,北海之帝為忽,
中央之帝為渾沌。
與忽時相與遇於渾沌之地,
渾沌待之甚善。
與忽謀報渾沌之コ,
曰:「人皆有七竅以視聽食息,
此獨無有,嘗試鑿之。」
日鑿一竅,七日而渾沌死。
南海の帝を(しゅく)と為し、北海の帝を忽(こつ)と為(な)し、中央の帝を渾沌(こんとん)と為す。と忽と、時に相与(あいとも)に渾沌の地に遇う。渾沌、之(これ)を待つこと甚(はなは)だ善し。と忽と、渾沌の徳に報いんことを謀りて、曰(い)わく「人皆七竅有りて、以て視聴食息す。此れ独り有ること無し。嘗試(こころ)みに、之を鑿(うが)たん。」と。日に一竅を鑿つに、七日にして渾沌死せり。
目次
老子
論文
「道学文化断想」 中国社会科学院哲学研究所教授
フー・フウツェン
「荘子の時代と地域の文化背景」
王永平訳
「道教と仙学」 フー・フウツェン著 神坂風次郎訳
(中国・新華出版社、1991年)
まえがき
第1章 道教とは何か
1、道教の定義
2、道教文化の源流
3、道教が生まれた原因
4、道教の特徴
第2章 道教の発展
1、方仙道・黄老道と巫鬼道
2、漢末の早期道教
3、魏・晋の時代の過渡期の道教
4、南北朝の道教の改革と成熟
5、隋・唐・五代の道教の繁栄と国教化
6、宋・遼・金・元の時代における道教の盛況と改新
7、明・清の道教の衰退と世俗化
第3章 道を修め仙を求める
1、道教の神仙信仰
2、道教の科儀および斎など
3、仙人の境界
4、仙人の路
第4章 内丹仙学
1、内丹仙学の源流
2、内丹の修練法の原理と効用
3、各派の丹法の要訣
4、付録:清静派の内丹修練の手順
5、女子の内丹修練法
第5章 道教の現状
法本第三十九
昔之得一者。天得一以清、地得一以寧、神得一以靈、谷得一以盈、萬物得一以生、侯王得一以爲天下貞。其致之、一也。天無以清將恐裂。地無以寧將恐廢。神無以靈將恐歇。谷無以盈將恐竭。萬物無以生將恐滅。侯王無以貴將恐?。故貴以賤爲本、必以下爲基。是以侯王自謂孤寡不轂。此非以賤爲本耶。非乎。故致數譽無譽。不欲??如玉、落落如石。
昔(はじめ)の一を得たるもの。天は一を得てもって清く、地は一を得てもって寧(やす)く、神は一を得てもって霊に、谷は一を得てもって盈(み)ち、万物は一を得てもって生じ、侯王(こうおう)は一を得てもって天下の貞(てい)たり。そのこれを致すは、一なればなり。天もって清きことなければはた恐らくは裂(さ)けん。地もって寧(やす)きことなければはた恐らくは発(ひら)かん。神もって霊なることなければはた恐らくは歇(や)まん。谷もって盈つることなければはた恐らくは竭(つ)きん。万物もって生ずることなければはた恐らくは滅びん。侯王もって貴高(きこう)なることなければはた恐らくは蹶(たお)れん。故に貴は賤をもって本となし、高はかならず下をもって基となす。ここをもって侯王は自ら孤・寡・不穀(ふこく)と謂う。これ賤をもって本となすにあらずや。あらざるか。故に誉(よ)を数うるを致せば誉(ほまれ)なし。??(ろくろく)として玉のごとく、落落(らくらく)として石のごときを欲せず。
去用第四十
反者道之動。弱者道之用。天下萬物生於有、有生於無。
反(はん)は道の動なり。弱(じゃく)は道の用なり。天下万物は有より生じ、有は無より生(しょう)ず。
道教
體道第一
道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
道(みち)の道(みち)とすべきは、常(つね)の道(みち)にあらず。名(な)の名とすべきは、常の名にあらず。無は天地(てんち)の始に名づけ、有は万物(ばんぶつ)の母に名づく。故(ゆえ)に常(つね)に無はもってその妙を観(しめ)さんと欲(ほっ)し、常(つね)に有はもってその徼(きょう)を観(しめ)さんと欲(ほっ)す。この両者は同出にして名を異(こと)にす。同(おな)じくこれを玄(げん)と謂(い)う。玄のまた玄は、衆妙(しゅうみょう)の門なり。
養身第二
天下皆知美之爲美。斯惡已。皆知善之爲善。斯不善已。故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音聲相和、前後相隨。是以聖人、處無爲之事、行不言之教。萬物作焉而不辭、生而不有、爲而不恃、功成而弗居。夫唯弗居、是以不去。
天下みな美(び)の美たるを知る。これ悪(あく)なり。みな善(ぜん)の善たるを知る。これ不善(ふぜん)なり。故(ゆえ)に有無(うむ)相(あい)生じ、難易(なんい)相成り、長短相形(けい)し、高下(こうげ)相傾き、音声相和し、前後相随(したが)う。ここをもって聖人は、無為の事に処(お)り、不言(ふげん)の教(おしえ)を行なう。万物作(おこ)りて辞(じ)せず、生じて有せず、なして恃(たの)まず、功成りて居(お)らず。それただ居(お)らず、ここをもって去らず。
安民第三
不尚賢、使民不爭。不貴難得之貨、使民不爲盗。不見可欲、使民心不亂。是以聖人治、虚其心、實其腹、弱其志、強其骨。常使民無知無欲、使夫知者不敢爲也。爲無爲、則無不治。
賢(けん)を尚(たっと)ばざれば、民をして争(あらそ)わざらしむ。得難(がた)きの貨を貴(たっと)ばざれば、民をして盗(とう)をなさざらしむ。欲(ほっ)すべきを見(しめ)さざれば、民の心(こころ)をして乱(みだ)れざらしむ。ここをもって聖人(せいじん)の治は、その心(こころ)を虚(むな)しくし、その腹を実(み)たし、その志(こころざし)を弱くし、その骨を強くす。常(つね)に民をして無知無欲ならしめ、かの知者(ちしゃ)をしてあえてなさざらしむ。無為をなせば、すなわち治(おさ)まらざるなし。
無源第四
道冲而用之或不盈。淵乎似萬物之宗。挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。湛兮似常存。吾不知誰之子。象帝之先。
道は冲(ちゅう)なれどもこれを用(もち)うればあるいは盈(み)たず。淵(えん)として万物の宗(そう)に似(に)る。その鋭(えい)を挫(くじ)き、その紛(ふん)を解(と)き、その光を和(わ)し、その塵(ちり)に同(おな)じくす。湛(たん)として存(そん)するあるに似(に)る。われ誰の子(こ)なるかを知(し)らず。帝(てい)の先(せん)に象(に)たり。
虚用第五
天地不仁、以萬物爲芻狗。聖人不仁、以百姓爲芻狗。天地之間、其猶?籥乎。虚而不屈、動而愈出。多言數窮。不如守中。
天地は不仁、万物をもって芻狗(すうく)となす。聖人は不仁、百姓(ひゃくせい)をもって芻狗となす。天地の間(かん)は、それなお?籥(たくやく)のごときか。虚にして屈(くっ)せず、動きていよいよ出ず。多言はしばしば窮す。中(ちゅう)を守るにしかず。
成象第六
谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門。是謂天地根。綿綿若存、用之不勤。
谷神(こくしん)は死なず。これを玄牝(げんぴん)と謂う。玄牝の門、これを天地の根(こん)と謂う。綿綿(めんめん)として存するごとく、これを用いて勤(きん)せず。
韜光第七
天長地久。天地所以能長且久者、以其不自生。故能長生。是以聖人、後其身而身先、外其身而身存。非以其無私邪。故能成其私。
天は長(なが)く地は久(ひさ)し。天地(てんち)のよく長(なが)くかつ久(ひさ)しき所以(ゆえん)は、その自(みずか)ら生(い)きざるをもってなり。故(ゆえ)によく長生(ちょうせい)す。ここをもって聖人(せいじん)は、その身(み)を後(のち)にして身先(さき)んじ、その身(み)を外にして身存(そん)す。その私(わたくし)なきをもってにあらずや。故(ゆえ)によくその私(わたくし)を成(な)す。
易性第八
上善若水。水善利萬物而不爭、處衆人之所惡。故幾於道。居善地、心善淵、與善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。夫唯不爭、故無尤。
上善(じょうぜん)は水のごとし。水は善(よ)く万物を利して争わず、衆人(しゅうじん)の悪(にく)む所に処(お)る。故に道に幾(ちか)し。居るは善く地、心は善く淵(えん)、与うるは善く仁、言は善く信、正すは善く治、事は善く能、動くは善く時。それただ争わず、故に尤(とが)なし。
運夷第九
持而盈之、不如其已。揣而鋭之、不可長保。金玉滿堂、莫之能守。富貴而驕、自遺其咎。功成名遂身退、天之道。
持(じ)してこれを盈(み)たすは、その已(や)むにしかず。揣(きた)えてこれを鋭(するど)くすれば、長く保つべからず。金玉(きんぎょく)堂に満つれば、これをよく守ることなし。富貴にして驕(おご)れば、おのずからその咎(とが)を遺(のこ)す。功(こう)成り名遂(と)げて身退(しりぞ)くは、天(てん)の道なり。
大同世界絵巻
野石 筒介
中国書画江界連合会理事会理事
ヒ
中国社会科学院哲学研究所教授
フー・フウツェン
西方文化の功罪
儒家文化の是非
「自由」と「不自由」の別
道学文化を世界へ
西方文化の功罪
西方文化に対しては、私は三つの要素から考えている。一つは古代ギリシャからの、自由、民主、科学の伝統。一つは古代ローマからの法治の伝統。一つはヘブライの宗教からの伝統である。
この三つが混ざって一つになり、西洋キリスト教文明が形成された。それは、自由主義と民主主義によって国を立て、科学技術の力量で世界を征服しようとするものとなった。
けだし西方文化に於ては「人の性は悪である」とする、自由主義とは即ち個人主義でありそこに人間性をおく、するとそれによって一つの限界が決められてくる、つまり法律を守る限り、個人の自由は侵されないとする。
個人の自由により他人の自由を妨げてはならない、これが法治の約束である。法律の運営は専制権力の破壊防止を必要とし、それによって民主を保障するとする。
このように法治を以て自由の根基とし、科学を以て民主の条件として、近来三百年の西方社会は大変革の成果を作り上げて来た。けれども、近年西方文化の弊害は、日を追って露見している。
それは文化体系の中で、人文と科学の二要素を分離する傾向が出てきたこと、又、自由主義と民主主義とに矛盾を生じてきたことによる。民主による多数人の意向の選択は、マスコミによってあやつられ、社会の公正な原則は偏ったものとなってきた。
西方社会では、人為的力量が世界を改造し、科学技術が自然を征服してきた。その結果、自然界と人類社会の無情な報復を受けるようになったのである。
人類の生態環境と社会の倫理道徳とは日ごとに悪化し、自然資源の損耗と戦争危機の膨張とは、人類の存在そのものを直接おびやかすに至っている。
西方文化は、短期間に、人類文明史上に奇跡的な創造をもたらしたが、同時に、人類に最も悪い結果を導いてしまった。儒家文化の是非
中国とその周辺の諸国は、儒教、仏教、道教の協議による文化を伝統とし、中でも、孔子、孟子、程子、朱子の儒家文化思想の礼教が指導的地位を占めた。
儒家文化は、家父長制と官僚政治思想のささえとなるものであり、「家=国」とし、「内なる聖・外なる王」という原則によって、最高の限界を設定した。これは即ち「聖人」の境界である。 西方文化と儒家文化とは全く相反して、儒家文化からは、自由、民主の思想は芽生えることは不可能だ。
「人の性は善である」と儒家文化は主張する。君主の無限な権力は、皆によって維持されるべきだし、尭舜的聖人の政治が求められた。けれども、無制限の権力は必然的に無制限の腐敗を招く。
これは確固たる政治法則であり、これも家父長制官僚政治の基本的特長である。それは人民の大多数が「聖人」になることは不可能であり、「家父長」としての支配者も「聖人」としての教条的束縛は求めたがらないからだ。
「聖人」への理想的追求よりむしろ現実の利益を求める。かえってその権力を利用して自己を神格化し「人聖」としようとする。そうなると、内輪の者が殺し合いをし陰謀をするなどが、国の政治領域に充満し、多くの人は敢てこの危険な場所に近寄らなくなる。
この種の家父長官僚政治は、一にその虚偽性を特長とする。「聖人」を看板として民衆をだまかし、嘘をつくことが社会の風習となってしまったのである。
二つめの特長は腐敗性にある。汚職官吏が徒党を組んで私利をはかり正しい社会原則がなくなる。それにより政権の土台はますます腐爛してゆく。 三つめは残酷性だ。
政権が弱くなってくると支配者は、私有化した権力を維持するためにあの手この手で民衆を弾圧する。弾圧の手段が激しくなるほど、支配者と民衆の関係は遠くなってゆく。
考えるに、儒家はその政治原則によって革命を不断とするので、政治者はまず「聖人」となり、それから「人聖」となってさらに「暴君」となる。そこに「湯武の革命」的政権交替方式の発生が要求される。
儒家文化によるこの弊害は、現代社会の文化とは相容れないことがはっきりしている。中国の伝統社会制度の問題について、王亜南先生は十九世紀四十年代にその著書に於て、儒家礼教の家父長制を背景とした官僚政治の特長を認識していた(『中国官僚政治研究』)。
カール・マルクスは早くに、西方社会の封建制と違う中国の「家長制的権力」を指摘している(『マルクス・エンゲルス選集第二巻』)。マックス・ウエーバーは、更に鋭く、中国における「家産官僚社会制度」の特長に注意した。
彼は説く、「中国と西方とは一様に、家長型の官僚制を核としている。その核によって大きな国が形成されている」「しかしその官僚制を運行する〈精神〉は、中国と西方とではまったく違っている」(『儒教と道教』)
実に中国伝統家長制による官僚集権政治の秘密は、儒家礼教の伝統文化の中に隠匿されているのである。「自由」と「不自由」の別
中国とその周辺の諸国は、儒教、仏教、道教の協議による文化を伝統とし、中でも、孔子、孟子、程子、朱子の儒家文化思想の礼教が指導的地位を占めた。
儒家文化は、家父長制と官僚政治思想のささえとなるものであり、「家=国」とし、「内なる聖・外なる王」という原則によって、最高の限界を設定した。これは即ち「聖人」の境界である。 西方文化と儒家文化とは全く相反して、儒家文化からは、自由、民主の思想は芽生えることは不可能だ。
「人の性は善である」と儒家文化は主張する。君主の無限な権力は、皆によって維持されるべきだし、尭舜的聖人の政治が求められた。けれども、無制限の権力は必然的に無制限の腐敗を招く。
これは確固たる政治法則であり、これも家父長制官僚政治の基本的特長である。それは人民の大多数が「聖人」になることは不可能であり、「家父長」としての支配者も「聖人」としての教条的束縛は求めたがらないからだ。
「聖人」への理想的追求よりむしろ現実の利益を求める。かえってその権力を利用して自己を神格化し「人聖」としようとする。そうなると、内輪の者が殺し合いをし陰謀をするなどが、国の政治領域に充満し、多くの人は敢てこの危険な場所に近寄らなくなる。
この種の家父長官僚政治は、一にその虚偽性を特長とする。「聖人」を看板として民衆をだまかし、嘘をつくことが社会の風習となってしまったのである。
二つめの特長は腐敗性にある。汚職官吏が徒党を組んで私利をはかり正しい社会原則がなくなる。それにより政権の土台はますます腐爛してゆく。 三つめは残酷性だ。
政権が弱くなってくると支配者は、私有化した権力を維持するためにあの手この手で民衆を弾圧する。弾圧の手段が激しくなるほど、支配者と民衆の関係は遠くなってゆく。
考えるに、儒家はその政治原則によって革命を不断とするので、政治者はまず「聖人」となり、それから「人聖」となってさらに「暴君」となる。そこに「湯武の革命」的政権交替方式の発生が要求される。
儒家文化によるこの弊害は、現代社会の文化とは相容れないことがはっきりしている。中国の伝統社会制度の問題について、王亜南先生は十九世紀四十年代にその著書に於て、儒家礼教の家父長制を背景とした官僚政治の特長を認識していた(『中国官僚政治研究』)。
カール・マルクスは早くに、西方社会の封建制と違う中国の「家長制的権力」を指摘している(『マルクス・エンゲルス選集第二巻』)。マックス・ウエーバーは、更に鋭く、中国における「家産官僚社会制度」の特長に注意した。
彼は説く、「中国と西方とは一様に、家長型の官僚制を核としている。その核によって大きな国が形成されている」「しかしその官僚制を運行する〈精神〉は、中国と西方とではまったく違っている」(『儒教と道教』)
実に中国伝統家長制による官僚集権政治の秘密は、儒家礼教の伝統文化の中に隠匿されているのである。
道学文化を世界へ
フー・フウツェン
歴史的経験は我々に告げている。一つの民族が世界民族の林の中に自立するためには、自己の伝統文化を否定したり、それを損なうのは良いことではない、と。マックス・ウエーバーの研究表明によれば、西方社会の資本主義が出現した究極の原因は、東方文化と相関する文化発展の段階で、宗教革新運動によって新教が起こり、その倫理が近代資本主義の発展を促進する上で有力に働いた。文化の特性は宗教にあって、人類の歴史の進行過程で宗教の作用を軽んじることは出来ない。ウエーバーは、一種非理性的カルヴィン教派の精神を、資本主義制度を形成する経済変革期の、独立自発の原動力と認めている。アメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンの主張では、経済の要素や意識的な要素などより、文化の要素は最も重要なものであり、文化はきっと二十一世紀の全世界の政治を左右するだろうと言う。中国歴史上、漢、唐の王朝は強大であった、というのは、数百年にわたって文化的革新をしたからなのだ。その逆に、民族の文化に損傷を与えたとすれば、大体に国が分裂し動乱する局面をつくり出すことになる。近年、台湾が中国から分裂したのは、伝統文化を放棄した時に始まったものであった。二十一世紀に入ろうとする今、西方社会の弊害及び中国儒教の構造的疲弊を防止し、全人類のために有望な前途をもたらす文化はあるのか? 私は多年の思考を通して、老子の道教文化だけが新世紀への最も優れた戦畧★文化だと考えている。清時代末の学者魏源は、『道徳教』は「救世の書」だと断言した。厳復も「黄老の学」は、必ずや民主主義の国に応用されるであろうと言った。ともにすばらしい見識であったと思う。
道学文化には、天と人との際★について自然学説の研究があり、古今の変についての歴史学説、性と命との根源にわたる生命学説もあり、自然をとことん追究し、社会と人体生命をさぐる慧智は、必ずや二十一世紀の人類に希望をもたらすものとなろう。拙著『道学通論――道家・道教・仙学』(社会科学文献出版社一九九九年一月出版)にこのことは詳細に論証したが、この本を世界文化の交流に感心をもつ朋友達にささげたい。道学文化は中国のものだけではなく、東方のものであり、さらには世界のものなのだ。
王永平訳
「清灘に舟を放つ」 王学仲
ヒ
荘子の時代と地域の文化背景
中国社会科学院哲学研究所教授
フー・フウツェン
要旨:荘子の誕生国としての宋国、またその時期の社会政治の文化背景は、荘子学派の思想と文学の形成に根本的、かつ、決定的な影響を与えたと言える。荘子は宋桓侯の時代に生まれ、彼の生活年代及び思想の形成時期は剔成、王偃二人の君主の時代であった。この二人の君主の支配下における、宋国の政治社会状況は荘子の学派の思想発展、学説の特色に多大な影響を与え、両者は互いに複雑な関係で結びついている。当時の宋国は、周知の通り、さまざまな文化の融合地として栄えていた。そのような環境のなかで、荘子の思想は展開され、いっそうの発展を遂げつつ広がっていたのである。荘子の学派はあらゆる分野を網羅し、森羅万象にいたるまですべてを広くその研究対象とした。 荘子の学派は各種のさまざまな豊富な文化の要素によって育成されたため、他の諸子の学説と異なった独特な文学スタイルを持っている。また、荘子は彼の弟子達とともに周辺の主な文化地域によく遊歴し、それぞれの地域による伝統文化の融合を一層高め、強固なものとしてきた。とくにこの中でも楚の文化を媒介として荘子の学派は老子思想を直接に継承することができたと言える。
キーワード:荘子;時域文化;戦国宋楚;道家
荘子の学派は宋国と同時期に誕生したが、それは偶然のものではなく、当時の宋国の社会的、歴史的環境、及び思想文化などと密接な関係がある。荘子の学派は“天下の枢”(とまら)である宋国の文化のなかで、その背景となった周辺の地理環境および周辺国家の影響を受け取って、さまざまなものを吸収すすることにより、その思想を深め、順調に自らの独特な文化を形成していった。
一
《史記・老子・韓非の列伝》には、“荘子は、蒙人也、名前は周、蒙漆園の官吏である。”とある。これは「荘周の故里」について、現在までに知られている限りの最も価値がある資料である。歴史的に、荘子の名前は“蒙”であり、“漆の園”と常に結び付けられている。古人の詩文の中でも、荘子の名前は蒙荘、蒙荘子、蒙吏、蒙叟(そう)、漆の園の官吏、漆の園人などと呼ばれ、《荘子》が漆の園の本、漆の園の経などと称され、蒙邑、漆の園はついには荘子の別称になってしまった。この大部分の内容は史公の記したものであるが、後世の“荘周の故里”をめぐる論争のほとんどは彼の記したものから生じたのである。
“蒙”という言葉は、古代の地名の中でとてもよくみられる。例えば、《左伝》における哀公の17年、“公は斉侯と同盟する、蒙に会うに行く”とあるが、これに対する杜の解釈では:“蒙は東莞の蒙陰県の西である”、つまり魯邑(ろゆう)(現在、山東県蒙陰県の境内)とされている。また、荘公の12年、“宋万が蒙沢で閔公を殺す”という箇所でのべられる蒙沢は、現在河南の商丘県の東北、宋時代に蒙城の東北の35里の所であるとされる。さらに、襄公の27年、“宋公と諸侯大夫との同盟は、蒙門の外に行う”との記録がみられるが、ここで述べられている蒙門とは、宋時代の蒙の城門と考えられているが、一説によれば、宋都に面する蒙の城門を指すのではないかともいう。
清時代の顧棟高の《春秋大事表》7巻の2においては、“侯国がそのそれぞれが宋に面するところの地名をいただいて(門の)名前が付けられている……宋に面するのが蒙邑であったため、蒙門とよばれた。また、現在帰徳治東北方向に蒙城があったため、東北の門とも称する。”とある。《書・禹と貢》と《史記》、《漢書》、《後漢書》には全て蒙山が記載されている。《水経注》は更に蒙水、蒙亳、蒙城などと記し、安徽の蒙城県についての話が数多く残されている。北宋の神宗時代、元豊元年(1078)蒙城の県長の王兢(きよう)は、蒙城に荘子の祠堂を建って、蘇東坡はこのために《荘子の祠記》を書いた。祠堂は現在では存在しないが、祠碑は依然としてそのまま残されている。いわゆる“荘周の故里”は、現在、安徽省蒙城県の、県城町の東門の外と、河南省の民権県の町の東北方向30キロメートルの所であろうと考えられる。漆園に関しては、現在河南の商丘県の近くの「小蒙故城」の中に遺跡があり、また、現在の山東省の曹県、カ沢に、また安徽定遠県の東の30里のところにも遺跡がある。(《広與記》巻5,6、および《読史方與紀要》巻50、また《潜邱剳記》などを参照)しかし、漆の園の旧跡でもっとも有名とされる場所は、安徽蒙城県の渦河の北1.5キロメートルの所にあり、またそのほかには渦河の南岸にも一つの漆園の街がある。太史公ののべた“蒙”は結局のところどれなのであろうか。種々の説の中で現在有力な見解は二つある。一つは、“蒙”は現在河南の商丘県の東北だという、伝統的な見解であり、広範に支持されている。さらにもうひとつの意見は、“蒙”は現在安徽の蒙城だというものである。この中では筆者の意見は前者のものと近いのであるが、以下にその主な理由を三つ簡略に述べる。
第一は《史記》に関連する資料からみる。
司馬遷が前人の本籍を記す時、たいていその時の実地名を使っている。《史記》には“荘子は、蒙人也”とあるが、それと同じように、例えば、“甘茂は、下蔡人也の”、“白起は、?人也”、“王翦は、頻陽の東郷人だ”などとある。下蔡、?、頻陽はその当時に実の地名が存在しており、司馬遷の言った
”蒙“も、その当時の実の県名、すなわち、蒙沢の所在地としての先秦の宋の蒙邑だと考えられる。春秋の時期に、南宮万が宋の?(びん)公を殺した場所でもある。
この点については、昔から既によく知られており、例えば《史記・老子韓非の列伝》には“蒙”下の裴?(べいん)集解と、司馬貞索隠皆径のいうように“《地理志》に蒙県が梁国に所属すること。”などとある。
ABC
“ということは《史記》だけによるではなく昔から習慣だった、さらに太史公より“蒙”は、全てが梁国の蒙県だとある。《史記》における蒙の話は三ヶ所がある。《夏本紀》より、“蒙、羽其?、“蔡、蒙旅平”、云々。(《書・禹貢》における蒙は全て山名だ、それは除く)。《老子・韓非列伝》の以外に、蒙の話は、また二つの所がある。その一、《絳侯周勃世家》より、“蒙、虞を攻撃する、取り。”
蒙、虞すべてが梁国の県に所属する、蒙西と虞の東と連結する、それゆえ蒙、虞に戦事が発生する、次々にそれらを取った。その二、《韓長孺子の列伝》より、“安国は刑事の処罰を受け、蒙の監獄吏田甲が安国を侮辱した。”韓安国、梁の人、梁孝王の中大夫、罪で蒙の監獄に入った。かれは出たとき、梁の内史になった。そこで、蒙が梁国の蒙県だということは明らかだ。
第二、歴代荘子の故里ついての資料からみる。
荘子の時代に蒙邑が宋国に属した、劉向の《別録》に荘子が“宋の蒙人”だと記したのである、そして、成玄英《庄子の序文》によると、荘子が“宋国雎陽の蒙県に生まれ”とも書いたがある。
蒙県が漢代と魏晋時代から、梁国に所属になった。(《漢書・地理志・下》、《後漢書・郡国志の2》および《晋書・地理の志・上》を参照)、《隋書・経籍志》には、“《荘子》20巻によるの、梁漆園の官吏の荘周撰”と記したことと、陸徳明《経典釈文・序録》によるの、荘子は“梁国の蒙県人”とは両者が一致した、ここに、ちょっと説明しなければならないことは、つまり、銭穆の言うように戦国時代に宋の都が彭城だ(大勢な学者がそれと同じ考えで)雎陽は宋が亡くなる前に既に梁国のものだ、と考えた。(銭穆《先秦諸子系年弁別》3巻を参照) しかしながら、ある他の学者の議論では荘子の誕生の時に、蒙が既に梁に属したことと主張したが、私はそれと異なっている。
《史記・宋の世家》“<宋微子、子休公田32年卒>子辟公辟兵が立つこと”に対して、司馬貞《操隠》で:“按:《紀年》には‘桓侯が璧兵’、璧兵は桓におくり名(謚し)をおくる、と説明したのである。また《荘子》云:‘桓侯が外出する、城門ところで先駆者は辟を呼ぶと、蒙人それを止まった、後、それは狂だ。’司馬彪云:‘辟を呼んだことは道を避けることと指した、が、蒙人は桓侯に辟を名に付けたのである。ゆえに先駆者の辟を呼ぶのは狂だ’”それは、“辟公”の“桓公(侯)
”の誤りにしやすいところがある、(春秋時代に宋に桓公が居り、ここで論者はこの桓侯をも桓公と呼んだかもしれない。宋の君王は桓侯だと呼ぶことにここでしかない。) 、《索隠》から引証したの《荘子》の中でそれはあって、現在の《荘子》にそれを言及してなかった。《荘子》の文はたくさんが無くした、流行古書の《荘子》佚文(清人黄?、王仁俊、孫馮翼持っている《荘子佚文》と司馬彪もつ佚文の注釈文があり、また近代の人馬叙倫もつ《荘子佚(いつ)文》1巻を参照することができる)宋人王麒麟のいうように、“圭はばらばらになっても、璧は壊れても、それは依然としてしゅちんな貴重品だ、博識な君子とってその価値を取れるでしょう。(翁元圻《困学紀文註》を参照<10巻>)
荘子は宋桓侯の時期に生まれ、《荘子佚文》より、宋桓侯の時代に、蒙が依然として宋に属した。桓侯の以降に剔成は宋君になって、宋君が自立した三年後に死去、宋君の弟(また、うわさで彼の子だとも説がある)偃(えん)は即位し、偃の在位期間は52年だった、その後で宋は消えてその時点から蒙は魏(ぎ)に属した。後世に“梁の蒙”だといわれるのはそうだった。李吉甫《元和郡県図志・河南道三・宋州》によると、“宋城の県……小蒙故城は、県の北方向22里ところで荘周の故里だ。”また、《後漢書・光武帝紀上》より、“帝は常に蒙を注意する”ということに対して、唐李賢注:“蒙は県名、梁国に属する、古城の場所は今宋州の北にある。”それと《元和郡県図》に書いたものと一致する。(また、王先謙が《劉永伝》における同じな説に対して、“<蒙県は>今徳府の商邱県の東北に属する”、と解釈したことをも参照)。宋の以来の地理著作、例えば北宋時代の地理の総志《太平寰(かん》宇記》には、荘子の故里についてのものと、宋国蒙邑の地理の位置に関わる資料は一杯があるが、ここで略する。
《淮南子・斉俗訓》曰く恵子は従車百乗にして。以孟諸に過ぎる、荘子はこれを見て、其余魚を棄した。”と記した。《淮南子》は《荘子》の内容をよく襲って、こといわれたことは必ずしも信用できないが、荘子が孟諸に釣ることだけは事実だった。孟諸沢は漢の梁国の雎陽の東北方向に蒙と虞との間にある、それと虞界と接して、つまり現在の河南商丘県の東北にある、荘子がそこで魚を釣ることと、いわゆる荘子故里は戦国の宋の蒙邑、漢の梁国の蒙県ということと同様だ。 《水経注・汳(へん水》によって、汳水はまた蒙県の故城の北へ流れるので、「小蒙城」とも呼ばれた。また《西征記》によって、汳水の南で約十五里とことの城は、荘周の本邑であった。荘周は漆園の官吏であって、郭景純の言い方で‘漆園の傲慢な官吏だ’、荘周はかつて恵施の悼みのために、悲しんで外に行かずに家に閉じこむのがあった。”。故に荘子は蒙で老いて死去したはずであるが、後世にいわゆる“荘子の墓”についての物語は(例えば《新定9域志》巻5に記したの、濠州での荘子の墓のこと)真実のなく全く荘子象徴のための記念性のものであろう。
第三、安徽の蒙城という地名の変更事情から見る。
史書と古代の地理志によって、現在の安徽の蒙城は前漢時代の山桑県だ、という、それは沛郡に属する(《漢書・地理志・上》参照)、後漢時代、それは汝の南郡に属する、横野大将軍は最初に王常に山桑侯に封ずった。(《後漢書》の《王常伝》と《朱祐景丹などの伝》参照)。魏晋時代から山桑県は?(しよう)郡に属した、それから梁国の蒙県までに約160キロメートル距離がある。南北朝から隋時代までに行政区域の変遷は激しくて、梁はそこで(以上叙述の山桑県)北の新安郡を設立した。(最初、梁は北の新安郡が宋城、すなわち元の雎陽、元の梁国の蒙県の故地に設立した、しかしそれは直ぐ廃棄されて、も一度そこで北の新安郡を設立した)、東魏時代から蒙郡の名を変更した,後で斎国によってそれは廃棄されて蒙県と変更した、後で繰り返し、また蒙郡に戻した、そこで「蒙」を称したのははじめだ。この“蒙”の名は元の梁国の蒙から転換に来たものだった。隋はもう1度これを山桑県に回復し、?郡に属した、もと梁国の蒙の地、すなわち小蒙故城は梁の郡に属するのだ。(開皇3年、梁の郡を免じて、16年宋州を設立し、大事業3年に梁の郡を復活して、唐武徳は4年また宋州に)。(《隋書・地理志(中)》と《通典・州郡7》参照) 《元和郡県図志・河南道3・亳州》》:“蒙城?,もと漢山桑県,沛郡に属する,後漢、変わって汝南郡に属する。魏、?郡に属す。后魏孝文帝そこ?州を建つ,山桑城を治る。それはあと梁に入った,梁はそこで西徐州を設立。後それは入魏に再びただに入った,名は?州と直った、??が???と直った。隋は??が?水?と直った。武コの四年,山桑?をもう一度に復活した,?州に属する。貞観は十七年、?州を廃棄した、山桑県は亳州に属する。天宝二年、蒙城県と名は変わった”。(また,《唐会要》卷七十:“亳州……山桑?,??十七年六月十七日,?州の所属権を廃棄した。天宝元年八月二十四日,蒙城?と直った。”それと《元和県図志》記載した時間の差がちょっと違って)山桑に関して,《水経注》の《陰?水》、《淮水》、《?水》などにも記載もあるので、参照して。司?遷漢見族であるので、彼のいう蒙は現代人により命名されたものだと思わない。
“漆園”ということは地名ではなくて、それは漆の木を栽培する庭園だ。昔から現在まで学者は史公のいう地名としての漆園を理解したが、それは何か妥当のないのだ。《詩経》、《尚書》、《周礼》などの典籍の記載によると、また現在、数年来の出土文物(発掘くつ)の情況から見ると、春秋戦国時代の中国の東西南北の各地に漆の木を栽培するのはどこでも目の前のものだった、漆林あるいは漆園は私営でも、国営のものもあった、荘子は官吏として蒙の漆園にいる訳だ、それは宋国の国から設立たっているものだ。日人龍川資の言うように、“中井積徳より、‘蒙に漆園があって、官吏の荘子は漆の事を管理する。’拙注:漆園は地名ではない、この説が成立する。”(《史記会注考証63巻)《荘子・人世間》の末によって、:“桂が食べるものだ、だからそれを切る;漆が役にたつもののだめにそれも切る、我々は役に立つものを知る、しかし役に立たないものをしらず”このことからも荘子の職業が漆木の管理者だ、と分かった。
前漢時代の梁国の蒙県は、戦国時代に宋の地盤だった、漢時代の山桑県は現在の安徽蒙城だ、戦国時代にも宋の地盤だった、それは宋の消えたのともに楚に属した。《漢書・地理志・下》:“宋の地、部屋、心それぞれが分野されで、今の、梁、楚、山陰、済陰、東平および東郡の須昌、寿張の全ては宋のものだった、”
宋は消えて、“魏はその梁をとった、陳、齊は沛を取った、それは荘子の以後の事だった。ここで、高適の、《奉雎陽李太守》の詩で、“地は蒙のものだが、城の遺跡に閼、伯、との墓が残った、かつてその土地は孝王に属した、それとも微子君王の昔の田畑だった。”このことは、この地域の重要な文化的な遺跡だったのを示したのである。
荘子学派は宋国の特定な思想の文化の環境と社会の政治の現実によって誕生したものである。宋国は荘子学派の誕生地として、その社会政治の背景が荘子学派の思想とその文学個性の形成に対して根本的、決定的な作用を担当した。
荘子学派の思想の学説の本質は等級制度と、その宗教、法律を維持する、および独断主義の制度の正統的な思想、意識を受け取りない、反して伝統の良し悪し、善悪観念を徹底的に否定するのだ、また荘子学派の思惟の視野は功利性の狭い規格のような制限の代わりにその時の、社会の人倫の日用と、功労、声名、利益と離れて、現実から超脱する、すべての外界物や悩みからの束縛を受けないように狙う、無限な高度から人生を捉えにする、“物と我、一つになれ”との物我の合一の理想な境界へ追求するのだ。そして、社会の改良や、理想実現の望むのは統治者に託すのではない、あるいは王権政治の古い道徳の擁護者、代弁者になるものでもなく、それは徹底的に君主統治およびその独断主義思想を取り消すのだ。ロマンチシズムの文学の基本の特徴というなら、それは理想を描写することである、その理由で《荘子》は中国の文学史の上のロマンチシズムの傑作だといえる。《荘子》の創作の基本原則と基本内容は主観的な内心世界から出発し、荒唐無稽の芸術的手法を使って、現実を否定する基礎の上でその自由な理想を表現するのである。故に《荘子》のような理想が存在しなければ、ロマンチシズムの文学もなかったのであろう。道の学説に関するものは荘子学派の思想、学説の核心だ、自由と無限はその道の本質かつ特徴である。
荘子学派は社会人生の道を導く、それにつぃて分かれる二種類の道がある、一つはその道の本質の属性、規則としての道から、――自然無為へ、また――社会の政治の理想にいく;もう一つは世界の本原の、無としての道――外界物を徹底的に越えて、――絶対的な自由的な境界に達する。そのために、所謂《荘子》の自由な理想は、社会と個別(個人的)の二つの面を含んで、前者は客観的なものであって主に現実的な人生の自由を求めることだ、つまり現実を実現すると根らでいる、;後者は主観的なものであって主に絶対的精神自由を追求し、精神の超脱を求めだ、この両者は実際に相互補完し合って、その目的が道に従って人間のすべて矛盾を最大の程度的に統一、調和させる、人と人の間の関係は最も徹底的な浄化を得ることができる、現実の人生を転換することもできる。所謂荘子の自由な理想、簡単にいうと、つまり精神はすべて外界の物から引き起こす感情の情緒の妨害と束縛を抜け出すことができる、形を離れ、知識を去り、すべてを忘れ去って、芒然の中ほこりと垢の外をさまよって、天地の中の一気に回帰に、それを味わいながら絶対的な自由な道の境界を達成するのである。現実の中で、自由平等、調和安寧、ほしいもの自ら獲得することとその適用する、純粋な生命である情が任意に行く、いかなる人為的な統治のない状態の理想的な社会なのである。このような独特な荘子派の玄学的な思想と彼の空想式の自由な理想の発生の理由は、社会??に対して極めて失望と嫌悪だから。
荘子は宋桓侯の時期に生まれて、彼の一生の主要な活動とその思想学説の成立の時期は剔成、王偃との二人君主の時代だった、この二人君主の支配より現実的な宋国の政治社会は荘子の学派の思想発展、学説の特色の形成にいろいろな影響を与え、さまざまな複雑な関係と関わっている。
二
《韓非子・忠孝》:“田氏は斉で呂氏を奪って、戴氏は宋で子氏を奪う。”また《内儲説下》:“戴驩は宋太宰であり、皇喜が君に大事にし過ぎで、二人利害で争って、皇喜が宋君を殺して政権も奪った。”
皇喜、すなわち剔成肝、司城子罕、戴氏だ(春秋時代、宋国の賢臣の司城子罕の名前が楽喜ではなく、前人はこの二人をよく間違った)。周顯王29年(前340)に剔成は宋桓侯を殺して自立し、これは宋国の歴史上の大きな事件だった。司城子罕は古人に言われたように、国家権力を奪い、君王殺しの典型的な人物だったのである。すると、かれは齊を奪う田氏と同様だ。(《韓非子》の《二柄》、《諭老》、《内儲説下》、《外儲説右下》、《忠孝》、《難三》、《五蠹と》、《説疑》、《人主》、および《史記・李斯列伝》の中での、李斯上秦二世の書などを参照)。宋君剔成は宋桓侯を殺して自立することは、荘子また荘子の派に大きな震動を与え、《荘子・?篋)》雲:“田成子(斉の家老)が君主を殺してその国を盗み取った。盗み取ったのは国だけでなく、その制度まで一緒に盗み取ったのだ。だから田成子は国盗人の汚名は受けたが、しかし彼その身は聖人の堯や舜と同じように安泰で、小国も非難せず、大国も誅罰を加えようとせず、それが斉の国を保つだけだって、盗まれた斉国とその聖知の法で,盗?之身を守るのか?”戴氏は宋公族であるが,子氏と同じ氏姓で,戴氏が子氏を奪うことと、田氏が齊を奪うこととは性質が違って、前述のように、従来、以上両者の性質が同じように論じたのにもかかわらず、《荘子》は田氏を非難するのは、戴氏により明瞭に酷くだった:“帯鉤を盗んだものは罰せられるが、国を盗んだものは諸侯となり、その諸侯の一門に道徳が集まる。ということは仁義や聖知まで盗んだことになりはしないか”このことから、町、田舎の中小経営者の利益と願望を代表する荘子学派は、仁義の名、聖知の法などは君王のような統治者に利用されば、いつでも民衆に害していることを分かった。結果として、荘子学派は統治階層の王権族貴族との一切の協力もしない、さらに、君主統治の弱気を鋭い非難する、:“小盗者は
罰せられて、大盗者は諸侯になって、諸侯の門に義士は集まって、昔桓公の小白(さん)が兄を殺して奥さんが嫁になった時期間に管仲大臣がいるのでしょう、田成子常は君王を殺して国権を盗み取ったところに孔子が貨幣を受けるところです。そのことを議論するのが価値まったくなし、行動するのが最低です、言行のふらふら矛盾するのは胸の中で戦う感じだったのです、またふかない!”
“戴氏が宋を奪い取る”ということは、荘子学派が聖知法に対する批判、君主の統治の思想を反対することと極めて関わった。君主の統治を反する《荘子》の思想について、戴氏が宋を奪い取った時期と《荘子》思想の発展の対応関係からみると、君主の制度に対する儒墨の批判を激しく攻撃する一部の《荘子》の外篇,雑篇が荘子本人のものではないにもかかわらず、それは荘子生活した時間と遠くない。
剔成死去の後、偃が嗣位した、幼くて国事ができないので皇太后攝政した。皇太后は大尹の母親、大尹は偃の庶兄である。《孟子》における宋王進賢傅の戴不勝、つまり荀子のいわゆる賢相戴子だ。《韓非子・説林下》:“白圭は令尹にいう:‘君長が政治を知る、君公は無事だ、今の君、小主の名のため、荊賀君の孝行をさせよう、君は公位を奪わないので大いに公を尊敬して、公は宋をいつでも持っている。’”ここで令尹は大尹だ、《左伝・哀公26年》杜注:“尹は、近官の寵者がある。”大尹は戴不勝であり、少主は偃だ。それについて《戦国策・宋守策》にはその同じの記録があった。周顕王の42年(前327)、孟子は宋国に着いて、薛居州傅の宋王について戴不勝と論じた、つまりこの年は宋王偃の即位の年であった。《孟子・滕文公》より:萬章問うて曰く、宋は小國なり。今將に王政を行わんとす。齊楚惡んで之を伐つときは、則ち如之何、と。”孟子は湯武の事で答えて、そして雲う:王政を行わずと爾か云う。苟し王政を行われば、四海の内皆首を舉げて之を望んで、以て君とせまく欲せん。齊.楚大なりと雖も(いえども)、何ぞ畏れん?”それ故、宋王偃は確かに初めのとき仁政の王道を推進したかった。孟子は齊国に行ったとき、齊威王は金の百を贈ったのに、孟子は受けなかったが、しかし宋で、宋王偃から贈った金の70鎰(いつ)を孟子は受け取った。(《公孫醜・下》参照)それは、その時に孟子は宋王偃に対して反感を持っていなかった、と言える。しかし間もなく、戴子が追放されて唐鞅は相になった、これは宋王偃の仁政の途中失敗の目印だった。宋王偃は小人に親しく賢臣を追放する、全面的に暴政を施政する、唐鞅の扇動で無辜の民衆は殺された、歴史の上で有名な桀紂式の一つの暴君になった。“ついに、亡国の禍い、受刑の咎、祖廟の消滅、民族が消えた、君臣の別れ、民衆の亡命という状態に遭った。”(《墨子・所染》参照)後世に凶悪を言うと、咎を必ず問う。宋王偃の君主の政治生涯の中、つまり仁政から暴虐の非道な統治までの全過程は、荘子の学派の社会の政治思想の形成とそのもつ特徴に重要な影響を与えた。《荘子・山木》曰く:“荘子は言う、‘今おろかな君主や横暴な大臣がはびこる中にいて、病み疲れを受けたくないと思っても、どうしてそれが許されましょう。殷の紂王に忠義立てした比干が心臓を引き裂かれたというのが、何よりの証拠です’”荘子は宋人である宋の官吏だ、“昏上”は宋王偃を指す、“乱相”は唐鞅を指す、“比干剖心”の例は、宋王偃がすでに紂と正式の暴君になったことを表明した。
宋王偃の五十二年の君主生涯の中で彼の政治の道が、とても複雑、曲折だった、しかしながら、この五十二年こそが荘子および彼の弟子達の最も主要な活躍の時期だった。荘子達は、宋王偃が高調で仁義を呼びかけから暴虐の非道な道になった全過程を経験した。宋王偃いわゆる仁政の王道の本質とその結果によって、荘子達は深く悟らせて:“仁義の行為は、ただ無実の偽善的なものにしかぬ、そして貪欲な悪者に有利な道具を貸してやることだけなのだ。”(《徐無鬼》参照)。統治者は仁政を推進するのがありえず、その仁政に対して希望を抱くのがただ幻想にしかない。宋王は一時的に“仁政”と吹聴するのが、それはただ彼の“眠り”ときの行動だけだ、目を覚めると間もなく彼らは人を殺すので死体が粉末にするのは当たり前だ。統治者の吹聴した“仁政の王道”というものは彼が昏々の眠っているときに送って来た数台の破れた車だ、彼らの本質は殺人屋である。《人間世》“顔回が孔子に旅立ちの暇を告げに来た”との文は荘子が宋君に対する態度を表明した。(顔回):「衛の君主は壮年に入って、非道な行いがつのってきた。浅はかに国を動かす、その非を認めず。軽々しく民を死に追いやって、いまやいたるところに死人が満ちあふれている。民はそれに抵抗するすべを持っていない。”たとえ君王の側に賢人がいても、かれが黙っているか、あるいはお世辞にするのか、どちらかをしなければならない。そうでなければ、きっと関竜逢、比干と同じように殺害されて、さらに君主は口車で自分を粉飾して、聴者を惑って視者の意識がぼんやりさせる。だから荘子の弟子達は根本的に古今の君主の統治者のいわゆる徳行の仁政を信じないだけではなくて、この世に対する改革の望みが統治者の手元に託していない、統治者はどんな仁政の王道を施行しても、それを一切に求めない。さらに俗世間のいわゆる仁義、また聖人(君主)の所謂すべて礼儀作法を根本的に破算する、統治者を維持する儒学者の“偽りの辞”と、墨子の“巧みの弁解”に対して猛烈な非難を与えた。俗世間に伝統のいわゆる是非善悪、義士かつ大盗は荘子の弟子にとってそれぞれが同様だ。結果として、これは荘子の弟子が統治者および彼らの吹聴した仁義道徳に対する絶望の心境だ。
後期の宋王偃は当時の諸侯に桀?だと言われ、殷?王などの前世の暴君が行った暴行と同じように宋王偃がたくさんの暴行をした。《呂氏の春秋》の《禁塞》、《過理》、《壅塞》;《戦国策》の《燕策》、《宋衛策》、《史記・宋世家》には宋王偃の様々な暴行についての記載があった、それによって荘子の学派から暴露した暴政と社会の暗黒が、宋王偃の後期統治と直接に関わった。《荘子・列御寇》より:“今宋国の深さは九重の淵よりも、宋王の激しさは驪龍馬よりも。”と書いた。《在宥》:“今の世は人を殺した、その死体が重なり合い、首かせ、足かせをはめられた人が並べて、刑で負傷者がどこでも見える。”これはその時の社会の真実な描写だった。《荘子》の完成したのは戦国の中期である、あるいは、ややその後期だった。《荘子》によると、当時の現実的な人生は従来の闇性と残酷性よりもっと酷い状態だった、統治者の無限な“貪欲”のことと民衆の悲惨な境遇だのことと強烈に対照されたのである。“今の天下に人を殺したくない統治者はいない”と(《孟子・梁恵王・上》)書いたがある、また(《孟子・公孫醜・上》)より
“民衆に対する暴虐な政治は今の時代を超える時代がない”。また、“庖に肥肉有り、厩に肥馬有り、民に飢色有り、野に餓?有り。”(《孟子・梁恵王・上》参照)そういうことはその時代の真実の反映だったのであり、そしてその時の社会の現実に対して有力的に非難した。いわば、荘子の学派は他の諸子と同じように“しとやかな世主義”だったが、闇社会に対する攻撃の点で共通であった。が、そのなかで荘子の学派は現実に対する非難と批判は最も強烈的、徹底的なのである。荘子の全体の思想の学説は現実批判主義の基礎にたっているものであり、彼は暴政だけに反対するではなくて、仁政にも反対した。要するに人為的な束縛、統治と圧迫すべてを反対していたのである。そしてかれらは俗世間の君主と全体の専制君主制を社会の歴史の角度から全般的に否定したのである。この結論は荘子の特別な生活環境と、特に宋王偃の統治の特徴と非常に関連していることをいわなければならないのである。
要するに、当時宋国の社会の政治現実のために、荘子の学派が統治者の凶暴残虐の行為と偽りの本質、および等級制度、同族支配の体系、また独断の主義より社会の人生の闇を深刻に認識した。ゆえに荘子の学派は統治者と協力しないことをはっきり決めた、現実に対して強烈な批判精神を持つことができたのである。さらに荘子の学派は統治者の意志による是非の観念、またもつ独断主義を徹底的に否定した。
荘子の学派は追求しているものは、つまりそれは、上に、君王がなくて下に臣もないような全く自然な気性で自由自在な理想的な生活である。が、彼らの理想の自由は社会の現実のなかで実現することができないので、彼らは精神の超脱を図ることに力を尽くす、俗社会の束縛を投げ捨てるのを希求して、つまり形を離れて知を去って、精神は宇宙のなかで漫遊するように、精神上の絶対的な自由を得ることに傾いている。そのために現実的な人生を否定することと、自由な理想を表現することとは《荘子》散文作品の基調になったのである、つまり、それは作者の一貫としての創作思想とその作品における基本精神だった。もし一方で社会現実に対して強烈的な不満は荘子の自由理想の学説の感性の基礎だったというなら、他方で理想的な人生を追求するのはそのロマンチシズムの創作方法だ。《荘子》の作者はわざに文学作品の創作を行うのは必ずしもそうでもなかった代わりに、その人生哲学の思想を解明することは真意だったのである。しかしその思想の学説が主に文学の手段で如実に表現するので、これで《荘子》がきわめて濃厚な文学の特色を持っている、そして独立的な文学性をももっている、という。荘子の学派は、理想の自由と闇の現実との両者の鋭い矛盾をふかく表現したのである、外部の現実世界と人自身間の矛盾を解決する手段はその理想主義だ、とみなした。そして現実の闇に対する批判と理想的な境界を追求することと統一させるのは直接にそのロマンチシズムの文学を招いたのである。
三
古今、荘子とその学派の名声と影響が社会にあまり大きくないという人もいるが、例えば朱熹はそう一人だった、“荘子はその時にあまりにも崇拝されなかった、彼は辺鄙な所で一人だけで言っていた。”(《朱子語類》が125巻)このような見解は適切性ではないと私は思っている。荘子が当時にもちろん漆園の小官吏だった、生活も苦しかったが、しかし、百官の長者として、大権力もつ太宰も荘子から教えてもらったことがであって、楚王は荘子を招聘した事実ではないものはないのである。ここでの問題になるのは荘子が統治者と協力したくなかったのだから。“小官職に寄るだけだ”(実際に正確な官も勘定に入れない)“生計ぐらいのだ”、(説明:ここから大部分引用は聞一多の《古典新義・荘子》より)それは荘子の“最大的な限度の譲歩だ”。故に荘子の当時の身分地位によって彼の名声、かつ影響の議論するのはいけないことだ。そして荘子と同時期の、やや後の屈原は彼の高い地位と偉業で名声と影響の高さをも誰でも認めていたが、しかし先秦著作のなかで彼とかかわる一つの文字でも見えず、それゆえ先秦著作のなかで荘子を載せたところがそんな多くないが、荘子の名声が高くないということはおかしいであろう。まして、その時に隠遁する人は社会のなかの大きな勢力になったのである。この陣営の人たちの中に多くの人が荘子の弟子達や、同調の人たちだった。彼ら多数の隠者は後世に著作を何も残ってなかった。ここでとても問題になるのは先秦時代の著作《韓非子》、《呂氏の春秋》のなかで荘子の名声を言及したことだけではなくて、大量の《荘子》の内容を引用した、《荘子》文章からの大きく影響を受けたのは明らかだ。あちらの「三為祭酒」と称する、最も先生だという荀子は、“荘周のずる賢くて俗を乱れること”で頭が痛くなったこともあったでしょう?(《史記・孟子と荀卿列伝》参照)そのために私は郭沫若の言うのがよいと思う、つまり:“荘子の名声はその時にかなり盛大であったのである。”
(《蒲剣集・荘子と魯迅》参照)荘子の学派が明らかに“片田舎の人”ではなくて、かれらはその時の社会の各種の思想、また文化の現象と直接、広範に関係したのである。そのなかで宋楚の文化は荘子の学派の個性の形成の決定的な役割を果たした。
宋は殷商の後裔である、自ら商だとずっと称していた、“天下から言わば、侯は周に従う、自分国の人から言うと、依然として商の臣が商の君に服従しており、その状況は最初と相変わらず”(顧炎武《日知録・武王伐紂》)とある。宋の文化は殷商の文化の嫡派であるので、“周民族にあまりにも同化されず、改造されず、損益をも通っていない殷文化だ”。(郭沫若《今昔集・論古代の文学》参照)周民族に対する抵触や、敵視というのは、“国が滅びん”を持っていた宋の人の普遍的な深層の心理状態だから。“昔、尭は成陽に遊歴、舜は雷沢に魚を捕る、湯は亳州(BO)に、前代先王の遺風は民にまた残った、そこで重厚で君子が多い”(《漢書・地理志・下》)とある。しかしながら、先賢達に指摘したように、先秦時代に宋国人が「愚かのものだ」とよくみなした、つまり往々愚かのものが宋の人に帰すのだ、これは宋人が時宜に合わない習慣、思想方法などと関係するのだから。よく考えると、周人は“絶えずに殷人を敵視し、同じように殷の民族からも周の民族に敵視情緒を払う、それは終わらなかった。”(郭沫若《蒲剣集・屈原の芸術と思想》)とある。以上の問題はこのような伝統的な対立の心理状況とかかわっている。周時代の後期、この敵視の状況は一層に厳しくなった、宋に生まれた《荘子》作者としても、彼らはこの“世俗の流”に逃げずに乗らざるを得なかったそうだ。
朱熹の言うように、:“その時に南方は異端が多かった。”(《朱子語類》125巻 参照) 朱熹のいうことでは楚を指したのである、文化伝統の上で宋楚はみんな殷商の文化の嫡派だ、“儒家は特に北方の現実主義を代表し、道家は南の超現実の理想主義を代表する、と言う。道家のなかの主要な人物の荘子は宋人である、……かれは南方の人物だ”。(郭沫若《歴史の人物・屈原研究》)そうすれば、周王朝の正統的な文化にとって、宋の文化が“異端の文化”の代表だという、そして宋の文化が異端の思想とロマンチックな文学の揺りかごだと言う。《荘子・養生主》に載せたの、文恵君王のために庖丁は牛を解剖する、その同時に、それは音楽舞踊である“《桑林》に一緒に合った”、《呂氏春秋・精通》、《論衡・訂鬼》および《太平御覧》巻き828よる《淮南子》注にしたがって、この包丁は宋人だ、《桑林》は殷の天子と宋君の音楽舞踊の一種だった。宋人は重大な場所で《桑林》の舞踊を行って、その場面の勢いはかなり広大で壮観である。《左伝・襄公・10年》によると、宋国は殷商の儀礼を使って、代わりに魯国は周の天子の儀礼を使う、このようにこの二種類文化はまったく異なっている代表文化だった。宋公の宴会で晋侯は誘われ、同時に《桑林》の舞踊を行う、それは伴奏付きながら舞踏を行い、突然に晋侯が恐怖くて見る勇気もなくなって母屋のなかで隠れてしまった、という。その後、“桑林神”から彼に災害の懲罰に下がられて、病気になったのである。このことより殷商の文化の伝統が宋国において燃えるほどの著しさをわかったのです。
郭沫若《歴史の人物・屈原研究》に言っているように:“殷人の気質は周人と異なって、より芸術を愛する民族である。殷墟の発掘した古物のなかで、銅器、石器、骨器、白陶としても、更には甲骨の上で刻んだ文字は、とても富んだ芸術の特色がある。また、時代の流れのために、殷人は最も鬼神を崇信する民族である、その文化の現すのなかで超現実的なの気品の特徴をかなり持っている。”中国のロマンチシズムとしての最初の目印は殷商の文化である、“富んだ芸術の特色”は殷商の文化の普遍的な、基本的な特徴だという。荘子の学派もつ超現実の思想およびその個性と、かれらのロマンチシズムの文学伝統の形成は、その誕生地としての宋国における超現実のロマンチックな文化の雰囲気の染めることとは重要な関係を持っているのである。
イギリスの18〜19世紀のロマンチシズムは作家の湖畔の詩人ひとりの コールリッジ(Mary Coleridge 1861-1907)は言っているように、“誰か、もし彼は同時に深い哲学者でなければ、彼は決して偉大な詩人になれない。”とある(呉蠡甫《西方文選論》下 参照) 《荘子》の作者達は哲学者と文学者と両方の才能を兼ねている、という。言えばけれども、《荘子》の作者達の意図は文学のために作品創作するのではなくて、かれらはその思想性もつ作品の学説を解明するつもりである。《荘子》の文学性の特徴を示すのはその哲学思想の直接的な体現だと、その哲学思想の具体的な形態を展示することである、《荘子》の作者が文学形式の自覚性および寓言芸術の相対的な独立性を運用したことは、そうだったのである。《荘子》に文学の自覚性と独立性を表していることを、聞一多の《古典新義・荘子》から言っている、“《南華》における言辞は確かな文学だ。”とある。また、“寓言は一つ種類の文芸になったことは荘子から始めたのだ。”という。さらに、荘子によって、“辞令は正式的に文学になった”とある。荘子のところの文字は道具の意味だけではなくて、それも一種の目的だ。”という。こうような言いのはちょっと行き過ぎだかもしれないが、《荘子》の特徴をよく言い表したのである。《荘子》は先秦諸子の著作中で最も富んでいる芸術性の作品だというと、その作者の誕生地の特定な文化の要素は決定的な役割を果たしたと考えられる。
荘子の学派の思想および文学個性の形成の特定の文化要素の探求について、宋国の取り分け恵まれている文化的な地理環境と、荘子が周辺の国への遊歴などを考えなくではならない、当時の宋国は、周知の通り、さまざまな文化の融合地として栄えていた。そのような環境のなかで、荘子の思想は展開され、いっそうの発展を遂げつつ広がっていたのである。荘子の学派はあらゆる分野を網羅し、森羅万象にいたるまですべてを広くその研究対象とした。 荘子の学派は各種のさまざまな豊富な文化の要素によって育成されたため、他の諸子の学説と異なった独特な文学スタイルを持っている。また、荘子は彼の弟子達とともに周辺の主な文化地域によく遊歴し、それぞれの地域による伝統文化の融合を一層高め、強固なものとしてきた。《荘子》のなかで宋の周辺の主な国に遊歴したことで、言及されたもっとも国は魯国であり、つぎは楚国、宋国だ、魏、斉国がまた劣った。荘子の遊歴足跡については、《荘子》の記載したものは主に以上の国だったのである。
先秦時代の典籍の中、《荀子》、《呂氏の春秋》、《韓非子》は荘子本人を言及したことがある、荘子本人および事績に関して最も豊かに記載する本が《荘子》の原典である。《荘子》のなかで「荘子」を八十回で言及した、(その中で《説剣》から11回を含む、《説剣》は荘子の学派の作品ではない、それは荘子、また荘子の学派と関係のない、本文による論じる《荘子》は《説剣》を含まない)“荘周”が九回、“周”(荘周)十七回(その中に《説剣》五回がある)、荘子と関連する記載が二十九則である、単に荘子の言葉が四則と荘子と恵子との弁論、問答が六則である、その以外また19則が残った、これらの材料によると、荘子は宋国を中心として、北へ魯、魏国に、南へ楚国に着いたことがあって、主に活動した国は宋国、楚国にあった。よってそのなかで荘子の活動は宋、楚国に各3回で、魏に2回で、および魯で1回であったのである。
ここで次に四つの問題の説明するのは必要となる。
第一、荘子が魯国までに行くことについて、《田子方》言うように:“荘子が魯哀公と会った”、もちろんこれは嘘だったが、荘子と魏恵王、齊威王と同時代人だ、それは魯哀公死後の既に120年だった、しかしこの篇は荘子の後学の著であるので、語句に関しては《斉物論>、《養生主》、《徳充符》などとかなり相同している、その内容にも荘子の言論をよく入った、それは荘子の嫡派のなかのよい作品である。(張成秋《荘子篇目考》、張恒寿《庄子新探》参照)ゆえに、この寓言では荘子が魯国までに行ったようにその背景と根拠を提供したのである。まして、蒙から曲阜までにただ300里ぐらい距離だ(両地距離171.5キロメートル)、魯までにいくのは簡単だった、荘子が魏文侯に会ったことがないためまさにようで、かれは魏国にいったことがないと言うことができない、荘子が魯哀公と会ったことがないためまさにようで、かれは魯国にいったこともないとのような説明することができないだろう、ただ荘子が会った人は哀公ではなく、ただ魯公だった。ここで、郭沫若の言ったように従うと、つまり“もし哀公が景公だという誤解だったら、それは寓言がなくなる、荘周の時代は魯景公、平公ら二人の時代に当てたのである。”(《10批判書・荘子の批判》自注2)参照)。
第二、荘子が齊国までに行くことについて。郭沫若《10批判書・荘子の批判》によると、荘子は齊国にいったことがなかったが、しかし聞一多の《古典の新義・荘子》は荘子が齊国で半日にじっとしていたことがあると言った。斉と宋は隣接しているし、齊国に対する《荘子》中の関連資料の記載があるので((《荘子》各種の記載のなかで斉を言及した部分は18節の以上がある、《説剣》を含まない)荘子は齊国にいったことが独断的な憶測だと考えにくい、と思う。《列御寇》における“荘子は招聘されたこと”について、?康《高士伝》によってこのことは齊宣王に帰した、つまり“後齊の宣王は荘周が相になることで大金で荘周に迎えた、そのときに荘周は:‘郊外で牛を弔っていることと会ってないか……’”と断った。《芸文類聚》36巻 参照) 荘子と梁恵王、齊宣王と同時代であるので、?康によって荘子と齊宣王との関係をさせたことは理に叶わないことがないのであろう。荘子の学派と稷下の諸学との密接な関係についてはここで略する。
第三、荘子は趙国までにいくことについて。《説剣》において、皇太子?の要請で荘子はかつて趙恵文王を説得した、それに対して古今学者はこれが縦横家の言ったことと判断し、荘子の学派と無関係だ、という。銭穆《先秦諸子系年考弁》4巻における《荘子見趙恵文王論剣乃荘辛非荘周弁》は荘辛のことだといっている。そして次にこういっている:“《抱朴子・欽士》によって:‘荘周が未食、趙恵王竦立’と言ったことがあって、このことについての証拠は《説剣》によるものか、またほかに何の証拠があるのか、もしほかの証拠がある場合、荘周が趙国までにいったことがあっても、《説剣篇》のいうことの真偽性は依然として不明である。”だから、荘子は趙国に行ったことがあるかどうか、またいっそうに考察しなくではならない、と思う。
第四、荘子学派の楚国の活動について。宋は周の東の諸侯国だと思って楚に常に強情するが、しかし文化に関して宋楚の両国はみんな殷商の直系の伝統文化に属するのである。商代の後期に、殷王の武丁の“奮起して荊楚を征伐すること”及び後商の王朝の東南への運営したことでいっそうに殷商の文化が南方で根強くならせた、それゆえ損益に対する周人の支配を免れたことができた、その文化の純粋性を守ったのである(郭沫若の《今昔集・論古代の文学》と《青銅器時代・駁“説儒”》参照)。楚の文化は一種の立派な文化として、殷商の文化の基礎を受け継いだ上に作り上げるのである。宋楚との特殊な文化は関係のために、荘子の学派の思想意識は楚の文化と通じ合っているところが有らせた、さらに荘子と弟子はその後から楚に遊歴し、活動して楚の文化とその思想である文章の風格は荘子の学派に作用したのである。《秋水》に書かれた“荘子が濮水に釣る”ということは必ずしも信じないのが、荘子はかつて濮水に釣ったことは真実なのだ。《春秋・隠公4年》:“衛人は濮で州吁を殺した”それについて、杜預注:“濮は、陳の水地名。”だという、《左伝・昭公9年》より:“然丹は陳に父人遷城、平坦な濮の西田によい。”それに対して、杜預注:“平坦な濮の西田に来る人は父人だ。”《水経注・淮水》:“濮水、それとも沙水と呼ぶ。”つまり、沙水の一部である。その旧跡は今の安徽亳県の境内にある、今安徽の蒙城の近い所である。元はそれが陳に属した、楚は陳を消滅したから、それは楚に属したのである。(別の濮水の問題をここで討論しない)王国維《静庵文集・国朝漢学派が阮2家哲学説記載》より、“荘子が南方に生まれる”自ら注:“荘子、楚人である、宋に生まれたのが、濮水に釣りにした、陸徳明《経典釈文》のいうように:‘陳水地’だが、そのときに楚は陳を消滅した,からそれはて楚の地になった、だから楚王は荘子が楚の相になってほしかったのである。”ここで《秋水》の作者より荘子と楚王との関係を結びついたのは、荘子の学派が楚での活躍的な活動とその影響力を示したのである。
荘子の学派は等級制度、同族支配体系、独断の主義などをきわめて憎んだので、彼らは主観の上に相対的な自由な開放の?楚文化の影響をとても受け入れやすい、それによってその思想の学説と文学の傾向は荊楚文化の鮮明な特徴を持っているのである。学術思想の上で、楚の文化は直接に荘子の学派が老子の思想の学説に対する継承を助成したのである、老子の核心の理論としての天道の自然無為の思想の基礎として、荘子の学派は自分の独特な思想体系の核心を形成した、すなわちそれは道の理論である。
宋国の特定の環境の懐胎と楚の文化からの育成することと、老子思想の影響などは荘子の学派の思想と文学である独特な理論学説の体系ができた三大要素である。それぞれ要素の形成時間はその差があってそれぞれが一致していないが、しかし全般的に程度の上でそれらが徐々に上昇の三つの3段階だといえる、拙文におけるものはそのなかでその一と二の二つの段階である。
上述したように、荘子の学派の思想文学の独自の旗印を掲げること、その鮮明な個性の形成に対して、宋国の特定な時期、環境の影響は確かに重要な役割を果たしたのである。荘子の学派という中国の文化の史上の“独異的な存在”(郭沫若《荘子と魯迅》中の言うことを借りる)、および《荘子》における卓越的、鬼才的な思想と文学の姿はこの特定の複雑で多彩な社会の現実と文化中で育成していたのである。
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*庄大鈞(1954−)中国山東大学の文学・歴史・哲学の研究院副教授、大学院生の修士指導教官。
『道教と仙学』
まえがき
古代の中国の伝統文化は、儒教・道教・仏教が主流だった。その中の仏教はインドで生まれ、漢の時代に中国へ伝わった。東晋以後、中国の文化は儒教・道教・仏教の三教が鼎立した。仏教は外来文化であり、中国に入ってきたばかりの時には中国固有の神仙方術に従属し、その教理も老荘の道家哲学によって解釈した。それは実際には道家と道教によって中国に受け入れられたが、唐代になると完全に中国の伝統文化と一体となり中国的仏教になった。儒家文化は、漢代からずっと統治する側の位置にあって中国の家長制の皇権政治を維持する精神的な柱だった。これは封建宗法専制社会という中国の特殊な国情によるものである。道家と道教文化は中国の伝統文化の源泉であり中国の伝統的な哲学の要素の一つである。それは、ある意味では中国人の英知の結晶であるとも言える。中国には数千年にわたって人々の心に大きな影響を与えた書が3つある。《易経》、《論語》、《道徳経》である。《易経》は夏・商・周の時代の原始宗教が残したものであり、その中に古い巫史文化の形跡を見ることができる。《論語》は儒家の祖師孔丘の教えを伝えるものであり、その中には周代の父権宗法社会の礼教の特徴が見られる。《道徳経》は周代の史官老が著した道家と道教の典籍であり、中国の最も古い母系氏族社会の原始宗教の伝統を受け継いでいる。六朝の《劉子・九流》は次のように述べられている。「道は玄と化すことを本とし、儒は徳を教えることを宗とする。九流の中では、二化が最上である。その道は無為によって世を化し、儒は六芸によって俗を救う。無為は清く虚ろであることが心であり、六芸は礼教によって教え導く」。「今、治世の賢は礼教を先とするべきであり、嘉遁の士は無為に努めるべきである。そうすれば、操と業のどちらも成し遂げ、そして身と名の両方を全うするのである」。これは、中国の数千年にわたる封建社会の中で、統治者が儒家によって権威を保ち、道家によって変革を実現したことを説明している。儒によって教化を行い、道によって巧みに人を欺いたのである。そして、知識階級の人々は儒家の学業によって向上しようと努力し、道家の技術によって身を全うした。彼らは儒によって官位を求め、道によって俗から脱した。いわゆる「内聖外王」の道は、内道外儒とほとんど同じことである。伝統文化のうち、仏教の専門は世を離れることであり、儒家の専門は世を管理することであり、道家の専門は世を超越することである。中国の伝統文化は、儒・道・釈の三家が互いに対立し互いに補足しあう文化である。
道家は哲学であり、道教は宗教であるが、両者には本質的なつながりがある。南朝の梁代の劉の《滅惑論》は、
道家は法を立てれば、その品に三あり。上は老子をしるし、次は神仙を述べ、下は張陵をつぐ。(《弘明集》卷八)
と述べている。
また、北周の道安の《二教論》も道教を評論し、
一は老子の無為、二は神仙の餌服、三は符の禁厭。(《広弘明集》卷八) と述べている。
つまり、道教が形成された後、道士たちは道家哲学を宗教化・方術化して道教の体系の中に取り入れ、道家哲学を道教の崇高な部分にしたのである。本来、哲学思想のない宗教が成立することは難しく、宗教化した道家哲学が道教の体系の理論的な柱になったのである。長生成仙は道教の修練の根本的な目標であり、古い仙学は道教と密接に関係していた。中国道教協会の前会長の陳寧氏は、仙学は儒教・道教・仏教の三教を越えた学問であると考え、仙学の内容を外丹学と内丹学(彼は内丹養生学を主要な仙学とした)に分けた。実際、道教が成立すると、仙学は道教によって主に伝えられ、仙学は神仙道教の主要な内容になった。これらのことからも、中国の伝統文化における道教と仙学の位置がはっきりわかる。
古代の西方の社会の人々が成仙の思想を生み出すことは難しかった。しかし、中国の社会では、知識人が人の生を看破し、数千年もの間この課題と取り組んだ。仙学は間違いなく道教文化の中で最も価値のある内容であり、大自然の本性と合致した仙人の境界も人の生の価値が具体化したものである。唐代の大詩人李白は、このような仙人の境界を知り、詩を作った。
余に問う何の意か碧山に棲むと、
笑って答えず心自ずから閑なり。
桃花の流水はよう然として去り 、
別に天地の人間に非ざる有り。
清代の内丹仙学の大家劉一明は身をもってこれを理解していた。
心は白雲に似て常に自在、
形は野の鶴と同じく西東に任す。
出頭しすなわち人情の幻を悟り、
開眼しすなわち世事の空を知る。
数は図書に達し妙理に参り、
琴は気息を調え屯蒙を養う。
丹台の羽客は天生に就き、
塵寰にありて大功を記すを疑う。
道教や仙学とは結局どのようなもので、道教の仙人の境界にはどのような優れた点があるのか。この書は、道教の歴史と現状、内丹仙学の流派や具体的な修練方法について真剣に探究している。


